追憶のジュブナイル
最近実家のガスが止まっているため夜な夜な銭湯に行くために愛車のジーノを走らせています。前輪のベアリングが傷んで異音が酷く、ロードノイズの相まって不快な音を撒き散らせながらズンズンとアスファルトを進んで行きます。
先日は所用で立川駅前の商業ビルに立ち寄り、その帰りに入間市にある銭湯に向かっていました。
ここ数週間というもの、猛暑を超え酷暑が続き、外に出ようものなら絶えず額と背中から汗が吹き出しています。
そんな状態なのにも関わらず、涼しい車内から抜け出し、サウナのような真夏の夜のコンビニの駐車場で煙草を吸うのです。
プロ野球のナイター中継なんかを汗だくになりながら聴き、そして何本目かもわからない煙草の火を消すとそこそこいい時間なのでコンビニを出て銭湯へ向かいました。
車内の効きすぎた冷房を身に受けながら走る夜の国道。
しばらく等間隔に続く背の高い街頭。
過ぎていく車の赤いテールランプ。
走り出したときには20キロ弱の道程を面倒に感じましたが、そんな風景を走っていると不思議とそんな気持ちはなくなっていました。
寧ろそういう時間が続いて欲しいと思い、それは日々密かに願っていることでした。
てっぺん近くの深夜の銭湯だとか、大した用事もないのに走らせる車とか、意味もなく長居する喫煙所やコンビニの駐車場、喫茶店。
そういった場所や過ごす時間が何故か好きで、それが無くなってしまうことを思うと悲しく感じるのです。
子を持った友人や芸能人。芸能人なんて飛びすぎているがラジオなんか長年聴き続けてると他人のようでいて知人でもあるようだと錯覚してしまう節があります。
それはもう人として一皮剥むけ、素晴らしい人間性を手に入れたことでしょう。
でも僕は守るものが自分だけの、尖っていてどこか刹那的な生き方に素晴らしさや儚さ、そしてある種のノスタルジーを感じます。
人の親が魅力がないってんじゃないです。もちろん素晴らしいのです。でもそれらの素晴らしさは守るものがある者のそれと全くと言ってよいと思えるほど別物です。
僕も親になればまた何か感じるのかもしれません。
でも少なくとも今は子煩悩な親は苦手だし、かと言ってその逆も嫌です。
ここまでくるともはやただの我儘にも思えます。
人はともかく、場所だったり雰囲気を一人で楽しむ時間みたいなものはある種の浪漫のようなものなのかもしれないなと考えます。
理想と浪漫は捨てなくてよいのであれば、なるべく持ち続けたいのです。
それは広い意味での自由みたいなものかもしれませんし、情熱のようなものかもしれません。
自分自身に嘘をつき、それを通せるようになったらそれが大人のようにも思います。
徐々に自由や情熱を隠しやがて捨て去ってしまう、そんな人間になっていっているような気分がすることがあります。
こうして人は生きていくのでしょうか。