All around us

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ココニイルコト

最近の朝のルーティンと言えば、朝にしょうものない時間を過ごすことだ。

午前6時には起床して湯を沸かし、朝食の準備をする。別段空腹を感じてることもあまりないので自分の分は用意しない。トーストであったりホットサンドであったり、炒飯を作る日もある。それにホットコーヒーか味噌汁。これから出かける準備があるので僕が用意している。別に頼まれたわけでもないが、なんとなく義務感を感じるため用意し続けている。

朝食をとっている間僕はゴミ捨ての準備をしたり着替えたりする。冬の寒い朝は車のエンジンを先にかけておいて車内を温めたりもする。前日の洗い物が残っていればそれも片付ける。

そうこうしているうちに出発の時刻となり、家を出て駅まで送っていく。ここでまでくると後は仕事までの少しの時間は自分の時間だ。ここから僕のしょうもないルーティンが始まる。

 

朝も早くからハイボールやビールを飲みながら煙草を吸う。その間調べ物をしたり本を読んだり英単語を読んだり、収支の計算なんかもしたりする。

最近でこそまだマシになってきたが、冬場はなかなかにベランダは辛かった。それでもこのルーティンは続いた。

 

気がつけば2023年だった。

世の中は加速度的に目まぐるしく進み、様々な常識やら在り方が変化していった。

健康こそが至高であり、時間の貴重さのようなものが酷く誇張されているように思う。映画やゲームなどは自らの体験よりも他人の体験を擬似的に体験することで時間の節約をするようになっているという。映像などのコンテンツは1.5倍速で見たり、ゲームはもはやするものではなくyoutubeなどで他人のプレイを見るに至っているようである。それもこれも時間をいかに有効に使うかということが根底にあるらしい。

一昔前であれば時間を潰すためのコンテンツ、ゲームや映画、読書などは長く楽しめれば長く楽しめるだけコストパフォーマンスが良かったという認識であった。しかし今は逆で、いかに短い時間で楽しめるかというのが肝のようで、時間あたりの濃密さというものがコスパにおいて非常に重要視されるようである。

この流れにおいては煙草やら酒というのは最早時間や金や健康の無駄という風潮が俄かに囁かれているでもないような。よく知らないが。

それは効率的でスマートだが、おおらかさは失われたように思う。どちらが良いというものではないが、どちらが好きかというのはあるように思う。

 

こと煙草においては現代では最早負の遺産のように語られることも少なくない。しかしそれはいまだに根強く、少なくともここ日本では消え去ってはいない。それだけ多くの依存者を擁しているからだ。だがそれを一口に「依存」という言葉に封じ込めて軽蔑の目を向けるべき対象なのか。合理的でスマートなものが一様に良いものなのだろうか。

 

僕は2023年を生きている。なんとかまだ生きているようである。そして酒や煙草などのしょうもない娯楽も息を潜めながら生き続けている。

僕はそんな時代にこのどうしようもない娯楽と共にココニイルのだ。そんな事実を極々小さな喜びとして日々を送ることとしたい。

 

今日の一曲

youtu.be

 

僕が二十歳くらいからファンクに嵌り、貪るようにして聞いていたのがスガシカオです。

その中でふとこの曲を思い出したのでこの記事を書くに至りました。ちなみにこの曲はSMAPに提供されてたりするのでそっちのバージョンも機会があれば聴いてみてください。

スガシカオがこの曲の詩を書いたのは23歳の頃のようで、初めて作詞をした曲だといいます。ここでは人と人のことを題材にしていますが、人が何をもって「ココニイルコト」を感じるのは人それぞれのようです。

 

 

デワデワ